【セネガル、ダカール、サンダガ市場、あるいはムリッド信徒】
すべての旅に終着点があるように、小生のこの旅の"終わり"はここに始まった。
(モーリタニアの首都ヌアクショットからセネガル国境の町ロッソへの道中。サハラの端くれで砂に足をとられる乗合タクシー。ここでiPhoneの純正充電ケーブルと今生のお別れ。) |
終着点はダカール。あのラリーと同じ。悪くないね、この響き。アフリカ大陸最西端にして、西アフリカ随一の都会(※1)。決して易しくない旅路の終点。日程的にも現地7日間でギリ。ふふふ。自己陶酔の行く末としてはまずまずではないか。そんな妄想にかられた刹那。
多くの人がセネガルに何をイメージするのか、わたしには分からない。んが、わたしには年来、セネガルに関して気に掛かっている件があった。ムリッド教団"Muridiyya"の話だ。2002年2月3日だからもう20年弱前になる。『越境するイスラム ~セネガル・マリ~』と題された番組をNHKで視聴した。番組内で教団の勢力が国家の規模に比して大きく国家内国家が疑われるほどだという。ホントだろうか?当時よく聴いていたユッスー・ンドゥールもゴリゴリの信徒だという話でパリで行われたライブの様子が映し出されたが、そうと知ってみてみると会場の熱気もまた違った味わいに。
ムリッド教団は、セネガル独自のイスラーム教団で、西アフリカにおけるイスラームの改革運動史の中に位置づけられスーフィズムにも系譜されうる信徒集団。19世紀後半以降の近代化の荒波の中でアーマド・バンバ(Amadou Bamba)という幾つかの奇蹟で知られた宗教カリスマのもと勃興してきた集団。勤勉を旨として国民の約3割が信徒とも(※2)。むりくり日本でいえば、政権に与する宗教政党公明党と大衆政党自民党が合体した組織を掌握する巨大信徒集団みたいな感じだろうか。
ということでダカールの短い短い滞在中に、ムリッド教団の空気に少しでも触れようと向かったのは、とある本にムリッド商人が中心になって商いが行われていると紹介されていたサンダガ市場だった。飛び交う言葉はウォロフ語(※3)。たぶん。
(サンダガ市場の一場面。いかにもそれらしい光景かな。) |
まったく公開するつもりはなく、ひとりヨシヨシするためにコソッと撮ってみた短い動画です。少しは雰囲気は伝わるでしょうか。ひょっとしたら興味もって頂ける奇矯な人もいるかも知れないと思い駄文と合わせて紹介してみる次第です。
そんでもって結局、街角で買ったのは"J'apprends le Wolof"って表題のついた仏語によるウォロフ語の教科書一冊(※4)。仏語すらレベル1にも満たないのに。ミーはバカざんすかね。
(サンダガ市場の街角の本屋さん) |
このあと乗ったタクで、ダッシュボードにアーマド・バンバの例の写真が飾ってあったので、率直に運ちゃんに"Are you Mourider?"「あんさんムリッド信徒?」と聞いてみた。"Sure"と即答。「もちろんですゼ。旦那。」てな感じでしょうか。やはり勤勉を旨とし自分たちがこの国の経済を支えているんだという自負の顕れでしょうね。その自信に満ちた返答が全てを物語っているようで印象的でした。
(アーマド・バンバの例の写真。1923年よりは前に撮影されたらしい。眼がハッキリ写っていないのに眼力が半端ない。バンバの唯一の写真とも。 en:Image:AhmaduBamba.jpg, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で) |
正直、ムリッド教団の何たるや、国家内国家の実態もよく分からない訳で。さしあたってwikipediaの記事、翻訳でもしてみるかなぁ。でも小生の手に余るなぁと思ってみたり。
またセネガルに行くことがあったら、教団の本拠地トゥーバ(Touba)でもいってみますかね。
(ダカールの名物ともされる乗合バス、カーラピッド。フロントにALHAMDOULILAH(イスラームの唱句)、上面にTOUBAの文字。) |
※1. 地下鉄の計画もあるらしい!と耳にしていたが"Train express régional Dakar-AIBD"のことだろうか?
※2. 小川了『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店(2010年)も参考にしています。
※3. ウォロフ語は、ウォロフ族の母語にしてセネガルの主要言語。ムリッド教団の布教の言語で都市部では仏語を除けば事実上の共通語。従ってセネガルで商売をするうえでは欠かせないということでしょう。上の本の25章の砂野幸稔の記述も参考にしています。
※4. CDもついていないボロボロの中古本。数千フラン(CFA)で1000円以下だったのかな。
【追補】(2021/4/30)
いま、振り返って小さな文章にしたためて感じるに、ムリッド教団とは、宗教のもつ様々な側面の中で肯定的な一面が上手く機能した例とみなしても良さそうだと。元来、宗教に斜めから、どちらかといえば否定的な側面に興味を抱いていた底意地の悪い小生ですら、ホントに短い時間でありながら前向きな彼らの姿に触れそう感じたのだなと。2年もしてから小さな結論めいた、"いわゆるひとつのなんか"を得たと。
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